2007年 壁画準備
2008年 バリ島にて下図制作
本画制作中は病院の壁に1/3サイズの下図を展示
宮崎県立日南病院エントランスホール塀画下図について
今日、県立日南病院エントランスホール正面を飾る壁画(約2m×28m)の1/3縮尺(60cm×6m)の油絵を仕上げました。
構想は2006年夏、古希の誕生日をはさんでガンによる腸の一部切除の手術のため入院した際に始まりました。70年の歳月を経過した身体は誰によらず何らかのガタを持っているものですが、老人が「老いという衰弱に向かっている病気」を持っているのは事実ですから、この事実に反抗する気持ちをいかなるかたちで表現するか、が私の画家としてのテーマとなりました。
外国暮らしの私は、やはり病気になることには神経を使い、かねてから身体には気を付けています。外国で病気になると、言葉の問題をはじめとして、医療技術、施設、費用の問題など、病気と同様大きな悩みとなります。私が普段生活しているインドネシア、バリ島では、自然療法については別ですが、日本では考えられないほど医療全般については遅れています。
それはそれとして、私はこの病院で手術を受け、自身の感じでは以前よりもずっと元気になり、新しい生命を得た喜びを持ちました。入院中私は、毎日病室の窓から眺める日南の風景を讃えました。毎朝生きてこの風景を眺めることが出来るというのは、自分が「生きている」という実感を強くします。
素晴らしい日本の風景。私が愛してやまないバリ島とはまた違って、自分の生まれ育った土地、宮崎がいとしいものになりました。
私は毎年、春と秋には日南に戻ってまいります。手術後の検査のためもありますが、自分の作品を発表したり、その他もろもろの用件を片付けています。
壁画は「日南讃歌」と名付けました。
病院エントランスホール正面、受付カウンター上部の壁が大きく空いていて、私はこのエントランスホールに入るたびにこの壁を装飾したいと思いました。この壁面が大きなエントランスホールの空間全体をいくぶん冷たい感じにしている。病院という身体的な問題と同時に精神的な問題も抱えてこのホールに入って来る人々に対して、この感じをどうにかしたい――――。
病室から眺めた日南風景の地形に沿った印象をもとに構図しました。西に田畑、山林、中央に市街、東に海という具合に。
作品を制作する動機は純粋なもので、まずその作品が、私個人にとってどのような意味を持つか。全人生を懸けるに値するか。その後にいろいろと社会的条件がやってきます。この作品を見る人々に精神的な豊かさを与えることが出来なければならない。
この作品の制作中、私は次の夜明けが待ち遠しくてなりませんでした。
井山忠行
「日南讃歌」制作日記より
2008年6月28日
10m幅のアトリエに9mのカンバスがかべのように立ち、朝の光でつややかに光っている。その前に立つとやはり何かしら怖じ気づく。
2008年 仮設 バリ島アトリエ主屋
下図を何枚もやり、充分考え、検討したはずなのに、又新しい考えが浮かんだりする。壁画の左端から進めることにして、デッサンをもう一度検討する。
とにかく全図は28mあり、普通のタブローのようにカンバスすべての平面の問題は、ここでは無いので、色彩の問題がやはり中心の主題になる。壁画のサイズとの関連からかつてパリのオランジュリーで見たモネの睡蓮の絵のことなど思い出す。今は問題外のこととしても。
木炭でアタリをとり、うすく溶いた油絵具で色を決める。絵具がつくと、白いカンバスは全くの別物となる。白い混沌から多彩な秩序ある世界が現れる。世界は生まれたばかり。
2008年 カンバス張りは3人がかり
たいへんな疲れ。カンバス張りで痛めたらしい左手がジーンジーンと痛む。
4面、デッサン。苦心する。決定的な線がうまく引けない。
5面、カンバス張り上がる。
カンバス張りは大サイズなので3人がかり。手伝いも慣れて来たのでずいぶん楽になったが、背中と腰に来る。
夜、背中の痛みでダウン、マッサージとバルサム。
左端から画面は進行して来て、12m分の大まかなアタリを終えたが、やはりこれだけの大画面ははじめてなので、なかなかの難物。生活時間のすべてはここにあるので、この重圧に耐える体力が続くかどうか?
2008年 さらに下図にも手を入れる
めざめの幸福な朝がある。
今日、又生きて仕事の出来る幸福。
小鳥のさえずりがあり、川の流れにあひるたちの腹を満たすたべものたちがいる。
背中の痛みがとれていた。助かった!!
荒ぬりの部分をある程度整えてみる。デッサンの修正。
色彩によってかたちが性格をおびて来る。色彩が喚起されるようにデッサンし、色彩によってそのデッサンが確固としたものになって来る。
デッサンと色彩は一体のもので、その両者が同じように歌わねばならない。
壁画は、それを見る人を包みこむものであり、見る人の視線はいつも動いている。
正面視するタブローとは決定的に違う。
2009年 絵の移動
中心の黄色の部分と5、6、7面のコンポジションについて考える。
杉の林の部分に手を入れる。
日南の林業が復活してくれると嬉しいが、現今の情勢ではむずかしいか。60年代の後半に熊本県八代郡東陽村に父親が持っていた山林の伐採後に、杉、檜の植林をした。かなりの面積で、その頃の父親の言い草では「40年後には一財産になるはず」であったが、今は全く打ち捨ててしまった。20年よく手入れをすれば、あとは成長を待つだけ、と言うことであったが。芸術家の現今の経済生活の困難を思えば、社会の変化とは言え、やはりこの財産がほとんど無価値なのは残念だ。
早朝から天気が良いと仕事がはかどる。今朝のような天気が最高。
体調が良いのが何より。
彩色していくうちに、ムーブメントの変更。ちょっとしたカーブ。1cmくらいの誤差なのだが。ここがおろそかだと絵にならない。絵全体はそういうものによって支えられている。
夕方、暗くなるまで絵の前を離れられない。
散歩はヤメ。
2008年 海のパートの制作
2009年 海のパート
2009年 最後の部分の仕上げを終えてサイン
2010年 宮崎県立日南病院に巨大壁画をかける
プロジェクトチームからの除幕式のご案内
2010年 宮崎県立日南病院壁画
「日南讃歌」取り付け開始
友人が作ってくれたパノラマ写真が制作に大いに役立った
2010年 取り付け作業
2010年 取り付けを見守る
取り付け前に緩んでいた部分の張り直し
あとがき 「日南讃歌」制作日記
この壁画の全図がそれが掲げられるべき場所に置かれた時、どうしようもないほどの疲労感を持ったのは何故だろう。全図が見渡せる椅子に座って、永久にその椅子から立ち上がることが出来ないのではないかとの感覚に襲われたのは何故だろう。
不思議な事に今日,この日が鵜戸神宮壁画に最初の筆を降ろした日のかっきりと10年後だったとは。2000年10月10日午前10時~2010年10月10日。この10年、壁画の仕事は運命的に自分を支配していたわけだ。
しかし、何はともあれ壁画は病院の壁に掲げられた。
2010年10月24日 除幕式 パノラマ写真 川床重弘氏提供